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今回のいいとこみっけ

福光に住む人々を見守るようにそびえる医王山。人々もまた、朝日や夕日に映えるその山並みを仰ぎみて暮らしてきました。共存しながら生活には切り離せない一部分となっている医王山。今回のいいとこみっけでは、医王山の自然・文化・登山にスポットをおき紹介します。

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医王山は最高峰の奥医王山でさえ標高939m、よく登られる白兀山(権現山)が896m、黒瀑(くろたき)山・前医王山、前衛峰の戸室山・キゴ山などは皆それよりも高度が低く、山勢もなだらかです。加賀と越中の平野部の堺として、山裾に多くの村々が点在する人里近い低山で、そのために、昔から人々の通路であり、狩猟や採集、炭焼きや伐採などの場として地元の人々の生活に密接な関係があったと思われます。
白山や立山など、中世から信仰登山が盛んで、登山口へのアプローチ、登山道、宿泊施設などが整備されていた山と違い、医王山では明治になるまで一般大衆の登山の記録がありません。
また、日光・大台が原・白山などでは江戸時代に本草家が山を歩き回り著した採薬記が何種も知られていますが、薬草が多いと言われている医王山であってもこの種の登山記録は見当たりません。
明治になると医王山にもいくつかの登山の記録があらわれました。
・ 小川小庵(明治13年)、黒本稼堂(明治16年)、木蘇岐山(明治25年)医王山に登って漢詩を残す。
・ 学生山岳団体の始めである、金沢の第4高等学校の遠足部が、明治36年医王山、倉ヶ岳などへしばしば出かけるようになる。
・ 明治36年ごろ泉鏡花が発表した小説「薬草取」の主人公の医科大学の学生が医王山へ薬草探しに行くというような時代の背景があった。
・ 明治39年に医王山に登った室生犀星は当時の印象を作品の中に『医王山は白山連邦とは関係のない孤独の山岳で、わずかに飛騨が子供を生みつけたくらいの低い5千尺の山であるが、かえって富士山や日本アルプスや立山や白山や黒部渓谷に比べて未開の深山の趣があって登山者も極めて少なかった』と記している。
参謀本部陸地測量部による医王山方面の測量は明治26年から始まり、それによって正確な地図が作成されるようになりました。
医王山を含む20万分の1図「金澤」は明治21年にはじめて作成されましたが、等高線図ではありませんでした。明治40年まで改版を重ねましたが、『本図ハ精確ナル材料ニ拠ッテ調整セシモノニアラス』と注釈がついていました。
2万5千分の1図は明治43年5月に発行されました。
山に登るということだけを目的とした近代登山は、日本では幕末から明治にかけて外交官や牧師、政府に雇われた在日外国人によって始められました。
明治38年には日本山岳会が結成され、富山県では福光出身の河合良成、石崎光瑤などがいち早く入会しました。石崎は剣岳登山をひかえた明治42年5月に、足慣らしとして故郷の医王山に登っています。友人と共に、祖谷口から鳶岩を廻り白兀へ、そして奥医王山まで足をのばし、才川に下山しました。石崎はこの記録を日本山岳会のジャーナル「山岳」にスケッチや写真と共に寄稿しました。これは医王山最初の詳細な紀行文として貴重です。
スキーが日本に渡来して、10年後には早くも医王山でスキー登山が行われるようになりました。大正9年、金沢の第4高等学校遠足部は旅行部と改称し、白山連邦や北アルプスに先鋭的な足跡を残しました。4高だけでなく、金沢商業、医専、薬専、金沢1中、2中などにも学校山岳部が結成され、医王山は彼らのホームグラウンドとして親しまれ、キャンプに岩登りに、そして雪中登山にと賑わいました。また、なだらかな医王山は山岳スキーの好適地でした。
そのような中、大正9年2月には金沢歩兵第7連隊のスキー将校団が医王山スキー横断を試み、遭難騒ぎを起こしたり、昭和5年1月には、例年の恒例だった4高旅行部が医王山横断スキー登山にて、遭難してしまいました。この地方ではじめての山岳遭難として世間に大きな衝撃を与えました。
医王山は里近い山で、なだらかな山の姿のなかには、鳶岩や三蛇ヶ滝、大池など味わい深い場所があり、またソロバン玉石や浮き島、サンショウウオなど珍しいものにも会える山として石川、富山両県から訪れる人が絶えない山となりました。
大正の初期からは雪山登山や山スキーを楽しむ1部の若者の他に、各学校の遠足で生徒も登山するようになりました。昭和2年には、現在のIOX−AROSAスキー場である白兀平に御大典を記念して植林が行われ、その中心部に山小屋が建設されました。
昭和22年の石川国体では第1回の登山競技が医王山で行われ、200名の岳人が全国から参加しました。
福光側の山麓に国鉄バスが通う昭和26年頃には、学校生徒ばかりではなく、地元の青年団や友達同士、家族連れなどがハイキングやキャンプに医王山を訪れるようになりました。
  昭和30年代に入ると、医王山の観光開発に拍車がかかり昭和31年、32年には見上山荘、国見ヒュッテが相次いで完成し、越中側と加賀側を至近距離で結ぶ尾根道、理造新道も開通しました。入山者の増加を反映して、山岳遭難も起こりました。
昭和37年には、福光側から山腹を削ってハイウエイ(医王山百万石道路)が国見まで開通しました。景観か観光かと議論を呼んだこの車道はその後も、石川県側にのび、多くの人は車で容易に医王山の風光に接することができるようになりました。昭和38年8月にはこのような時勢に応じたものか、三蛇ヶ滝、大池、鳶岩の土地の権利を主張する個人が関所を設けて入山料を徴収する事件があり、山を愛する人々は割り切れない思いをしました。
  車道の整備により、登山対象としての医王山は車で通る山に変貌してしまいました。
昭和42年の富山県体の登山競技が医王山で行われ、登山コースも整備され、同年10月には、医王山一体が富山県定公園に指定されました。昭和52年の石川県体でも医王山、奥医王山で登山競技が行われましたが、昭和50年代には全国的に登山の衰退は著しいものでした。
スポーツや趣味の多様化により、苦労して山に登ろうとする若い人が減り、どこの学校山岳部でも社会人山岳会でもレベルの維持が困難になりました。医王山でも冬山や岩登りに挑戦する登山者の影を見なくなり、登山道は荒廃しました。

平成の時代に入ると人々の自然志向が強くなり、そして余暇のできた中高年の人々に好適なスポーツとして登山が見直されてきています。また、白兀平から荒山平にかけて広大な山腹を削って造成された、IOX−AROSAスキー場には大勢の若者や家族連れの歓声が山腹にこだましています。パラグライダーや熱気球も山の上を漫歩しています。
人々はこの時代に新しくまた多角的なかかわりを医王山に持ち始めました。



参考文献:富山県福光医王山文化調査委員会 
医王山文化調査報告書「医王は語る」


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